はじめに
「母だから」「子どものために」——その言葉を胸に刻み、日々を走り抜けてきた。気がつけば、私の世界は“母であること”だけで埋め尽くされていた。笑顔も涙も、喜びも絶望も、すべてが子どもを軸に回っていた。そんな日々の中で、ふと気づいたのだ。「あれ、私はどこに行ったんだろう?」と。
母として生きることは尊い。でも、それがすべてになると、自分自身が見えなくなってしまう瞬間がある。この記事では、母である自分と、一人の“私”としての自分。その狭間で揺れる心を掘り下げ、同じように悩む人への問いかけを綴っていきたい。
子どもの笑顔が生きがいになった日々
子どもの寝顔を見て「生まれてきてくれてありがとう」と思う瞬間。その愛しさが、私のすべてだった。夜泣きで眠れない日も、食事もろくに取れない日も、「母だから頑張れる」と自分に言い聞かせた。母としての役割を全うすることが、まるで生きる意味そのものになっていた。
でも、その“母だから”という言葉が、知らぬ間に鎖になっていた。母であることを理由に、自分の本音を押し殺すようになっていたのだ。好きだった本も読まなくなった。おしゃれもやめた。欲しいものを欲しいとすら言わなくなった。いつの間にか、私は「子どもの母親」という仮面だけをつけて生きるようになっていた。
“私”を隠すことで生きやすくなるという錯覚
「母親なんだから」「わがままは許されない」——そうやって自分を縛ると、確かに周りから責められることは少ない。社会的にも「良い母親」という評価を受ける。でも、鏡の中の私はどんどん無表情になっていった。
「母である前に、私は一人の女なんだ」と叫びたくても、口を開けば誰かに非難される気がして、声を失っていた。誰かに理解されたい気持ちは強くあるのに、「母親として失格」と言われるのが怖くて、本音を隠したまま日々を過ごしていた。
夫とのすれ違い——“母”としか見られなくなった夜
子どものことばかり話す私に、夫は次第に距離を置くようになった。食卓で交わす会話も、育児や学校のことばかり。気づけば、妻としての私ではなく、「子どもの母親」としてしか見られなくなっていた。
夜、夫が眠りについたあと、一人で涙を流した。「私はもう、女として必要とされないのだろうか?」そんな思いが胸を締めつけた。夫の視線の中に“女”としての私を探しても、そこにあるのは“母”だけだった。
“母である私”と“女としての私”の狭間で
心の奥底では、誰かに「女」として見てほしかった。きれいだね、と言われたかった。抱きしめられたかった。それを望む自分を、必死で否定した。——母である私には許されない欲望だと信じていたから。
でも、本当はそれが人間らしい心の叫びだった。母になっても、私は女であり、私自身であることに変わりはない。母になった瞬間に、すべてを捨て去る必要なんてなかったのだ。
友人との再会がくれた気づき
ある日、久しぶりに友人と会った。彼女は独身で、自由に仕事や恋を楽しんでいた。羨ましさと同時に、胸の奥から「私ももう一度、自分の人生を生きたい」という声が響いた。その瞬間、忘れかけていた“私”の存在を思い出したのだ。
彼女と話す中で、自分がどれだけ「母であること」に埋もれ、女としての自分を置き去りにしてきたかを痛感した。心の奥で、再び灯がともった気がした。「私も私でいていいんだ」と。
あなたなら、どうする?
もしも“母であること”がすべてになり、自分を見失ってしまったとき——あなたならどうしますか?
子どものために自分を犠牲にし続けるのか。それとも、母である自分と、私自身の両方を大切にするのか。
答えは一つではない。けれど、心の奥で「私も生きたい」と叫ぶ声を、どうか無視しないでほしい。母であることを否定するのではなく、「私」を取り戻すことが、子どもにとっても大切なことかもしれないのだから。
小さな一歩から“私”を取り戻す
母であることと、私であること。どちらかを選ぶ必要はない。両方を抱きしめて生きることができる。小さな一歩でもいい。化粧をして外に出るだけでもいい。好きな音楽を聴くだけでもいい。その一瞬一瞬が、“私”を取り戻す道しるべになる。
私は最近、夜に少しだけ一人の時間を持つようにした。カフェでノートを広げ、自分の気持ちを書き出す。すると、少しずつ「私」が戻ってくる感覚がある。母である自分と、私自身が共存できるのだと実感できる瞬間だ。
まとめ
“母であること”は誇りであり、かけがえのない役割。でも、それだけにすべてを捧げてしまえば、自分の魂は枯れてしまう。母である私も、女としての私も、ひとつの命としての私も、すべてが大切だ。
あなたの心は、あなただけのもの。母であることに囚われすぎず、“私”という存在を忘れないでほしい。母であり、女であり、私であるあなたが、もっと自由に息をして生きられることを、心から願っている。