はじめに:
ミルクの香り、柔らかい小さな手、夜泣きの残響、洗濯物の山。そんな繰り返される毎日の中で、私は確かに生きていた。母として、妻として、誰かのために機能する存在として。それはたしかに誇らしいことだったはずなのに、ある瞬間ふと、私は“わたし”を見失っていることに気づいた。
その日も変わらない朝だった。オムツを替え、ミルクを作り、食器を洗いながら、次に何をするべきかを頭で反芻する。そんな中、ふと通りかかった洗面所の鏡が私を引き止めた。そして、無意識に口紅を手に取っていた。その行動に、私は驚いた。誰にも会わない、誰にも見られない。なのに、なぜ私は唇に色を乗せたのだろう?
彼に触れられた夜のことを、まだ覚えている
赤ん坊の泣き声で目を覚ます前、私の体は別の腕に包まれていた夜があった。名前すら記憶の奥に押し込めたあの人。触れられた肌、見つめられた目、言葉にしなかった感情たち。あの夜を思い出すと、胸が少しだけ苦しくなる。
抱かれたことを後悔しているわけではない。ただ、それを選んだ“私”を、今の私はどう扱っていいかわからないだけ。あのときの私は、確かに“女”だった。母でも妻でもない、ひとりの生きた人間だった。
口紅は、その記憶を呼び起こす儀式
唇に色を乗せる。それは、私にとって記憶の鍵だった。あの人と過ごした昼下がりの静けさ。目を合わせずに重ねた指先。罪悪感と幸福が交差する一瞬のまどろみ。そのすべてが、一本の口紅に封じ込められていた。
それは、誰にも見せられない美しさだった。誰にも理解されない選択だったかもしれない。でもその行動がなければ、私は完全に“消えて”いたと思う。だから今も、手が勝手に動く。生きていた証に、あの頃の私を思い出すために。
育児の手を止めた一瞬の“裏切り”
泣き声を聞きながら、鏡の前で立ち止まった。手に口紅を持ったとき、どこかで「いけないことをしている」と思った。育児に集中すべき母親が、自分の美しさに目を向けるなんて、どこか間違っているような気がして。
でも、ほんの一瞬だけでいい。自分を許したかった。目の下のクマも、崩れた髪型も、すべてをそのまま受け入れて、それでもなお“きれいでありたい”と願う心を、見て見ぬふりしたくなかった。口紅は、そのための小さな抵抗だった。
「あなた、何考えてるの?」と聞かれたら
夫の声が背中から聞こえたとき、私は返事ができなかった。「別に」とだけ答えたけど、心の中では渦が巻いていた。あの人のこと? それとも、あの頃の自分のこと?
いま隣にいる夫は、きっと私を愛してくれている。家庭のために真面目に働き、私たちに尽くしてくれている。でもどこかで、私は彼に“見られていない”気がしていた。ちゃんと見られたいと願うのは、そんなにいけないことだったのだろうか。
愛じゃなかった。でも、救われた
あの人との時間は、決して愛と呼べるようなものではなかった。約束も、未来もなかった。ただその場限りの、熱と欲と逃避。だけど、そんな不完全な関係でさえ、私には必要だった。
日々の生活に押しつぶされそうな中で、自分が“生きている”と感じるための灯火。女として存在していると、誰かに思い出させてもらう時間。恥ずべきことかもしれない。でもそれがなかったら、私は心のどこかを壊していただろう。
あなたなら、どうする?
育児に追われ、家事に疲れ、心を見失いそうになったとき。ふと誰かのことを思い出したら——それは裏切り?それとも、生きるための本能?
自分を守るために、記憶の中に小さな光を灯す。それが、誰かとの思い出だったとしても。それでも、生きていくために必要なことなら、あなたはその記憶を責められますか?
女であることを、もう一度思い出すために
私たちは、母であり、妻であり、時に娘でもある。でもそれ以前に、人間であり、女であり、命をもつ一個の存在。社会がくれる役割に縛られすぎて、そのことを忘れてしまいがちになる。
オムツを替えたあと、ふと手にした口紅。それは、私がまだ“女である”ことを思い出すための小さなスイッチ。誰にも気づかれなくても、誰にも褒められなくても、それが私の“生”だった。
もう一度、自分に恋をするために
長い間、自分に無関心でいた。鏡を見るのも嫌になっていた。誰の期待にも応えるのに疲れて、自分自身が空っぽになっていた。だけど、ふとした瞬間に、“自分に恋をしたい”と思った。
もう一度、私自身を好きになれたら。もう一度、自分に優しくできたら。きっと、それは誰かのためにもなる。私が満たされれば、愛もまた自然と流れていく。
まとめ:
口紅を塗る手が、かすかに震えた。それは、もう戻らない記憶の扉を開いたから。罪と呼ばれる感情、後悔と呼ばれる記憶。それらを全部抱きしめながら、私は今日も母であり、女であり、ひとりの人間として生きている。
あなたも、自分自身の中にいる“忘れかけたあなた”を、今日ほんの少しだけでも見つけてあげてください。その瞬間だけでいい。息をするように、自分を愛して。